ファシリテーターには「気働き」が必要だ
この記事は「ファシリテーター」をテーマにしたアドベントカレンダーの3日目の記事になります。
世の中は学びにあふれている。
スポーツ観戦、アニメ、ゲーム、マンガ、映画などなど。エンターテインメントも然りだ。
ぼくは最近、落語からも学びがあるなと感じた。正確には、落語家を主人公にしたマンガ『あかね噺』からファシリテーターに通ずるものを感じたのだ。
作中に、こんなエピソードがある。
初めて人前で落語を披露した主人公。今まで磨いてきた自分の芸に、確かな手応えを感じている。
そして、二回目の高座に臨む。しかし、思ったようにウケない。自分の力を出し切れば、きっとウケる。その思いも届かずだった。
その姿を見て、兄弟子はこう言う。君の落語は身勝手だ、と。
つまりは、自分の芸を前面に出すだけで、目の前のお客さんに喜んでもらうための工夫をしていないということだ。
このように、相手が喜ぶことを考え、気を回し、先んじて動くことを、落語家は「気働き」と言うそうだ。
このエピソードを見て、とある読書会に参加したときのことを思い出した。
この読書は、参加者がお互いに読んだ部分のまとめを発表して対話をする、アクティブ・ブック・ダイアローグ形式だった。
一人が発表を終えるたびに、ファシリテーターが「そうそう、ここはこういうことを著者は言っていて、こういう解釈もできますよね」という合いの手(?)を必ず入れていた。
よほどこの本の内容を自分の口から伝えたいのだろう。たしかに、人に内容を教えたくなる、良い本だった。
しかし、参加者はそれを望んではいないように思えた。少なくとも、ぼくはそう感じていた。ファシリテーターの解釈を聞きたいという理由で、読書会に参加していたわけではないのだ。
自分が伝えたいことを投げつけるだけの場になっていないか?
自分のテクニックを試すだけの場になっていないか?
参加者の喜ぶ場になっているか?
常に自分に問いかけ、「気働き」を忘れないよう、その場に立ち続けたい。そう思います。